柔道ニュース  『オリンピック3連覇、野村氏の話①』

みなさん、こんにちは。

とても長かった梅雨が明け、一気に猛暑が押し寄せました。

この暑さにマスクは勘弁して欲しいと泣き言の一つも言いたくなりますが、コロナも猛威を奮っていますし、自分だけでなく周囲の事も考えて耐えましょう。

さて、最近テレビでオリンピック60キロ級3連覇の野村氏の特集番組がありました。 その内容でいくつも印象に残る話がありました。自戒の念を込めてご紹介したいと思います。

野村氏は奈良県の生まれ。実家の隣には祖父が創設した町道場があり、3才から柔道を始めた。 父は名門天理高校の柔道部監督であり、叔父はミュンヘンオリンピックの金メダリスト。華麗なる柔道一家のサラブレッドとして育った。

柔道は常に生活の一部という環境だったが、野村氏は両親から柔道一家に生まれたんだから柔道をしなければいけないとか、背負わなければいけないといったプレッシャーは一切感じずに育ったという。祖父も同様の考え方で、強くなれとか上手くなれとか試合に勝てといった話は一切言わなかった。生まれた家は柔道一家ではあったが、物凄く柔道を楽しめる環境だった。だから、道場に行くのが楽しかったし、道場で友達に会うのが楽しかった。技術は無いけれど、相手と組み合うのが楽しかった。そして柔道が好きになった。

子供の頃は弱かった。 柔道のトップ選手でも小さい頃は弱くて女子選手に負けていた話はそこそこ聞くが、大抵は小学校の低学年の頃の話。野村氏は中学になっても負けた。

中学(天理中学)に入学した頃32キロしかなかった。中学の一番軽いクラスが55キロ以下級だったから、最軽量級の中でも20数キロ足りない状況だった。体も小さかったし、楽しい柔道しかしてこなかったので弱かった。 小学生時代はいくつかのスポーツをやり、中学進学時にどれか一つに絞って取り組もうと選んだ柔道で、最初の試合だった市民体育大会で一回戦で女子選手とあたって負けた。 この敗北は野村少年にとって初めての挫折であり、闘争心に火を付けるきっかけともなった。 しかし、その後も体格に恵まれず、投げることも勝つこともままならない日々が続いた。それでも不思議と柔道を嫌いになることは無かった。

進学した天理高校でも柔道部に入部した。柔道部には副部長の父と上級生の兄がいた。 父は野村兄弟にアドバイスは全くしなかった。 天理高校は団体戦で日本一を目指しており、周りは大きい人ばかり。まともに組んでも通用しないから、自分が勝てる柔道って何だろうと考えた。小ささ、スピード、反射神経などを活かす柔道をしようと考えて、組み合う柔道から組み手にこだわり、組んだらすぐに技をかける、動きで相手を翻弄して戦う柔道にしたら結構いい感じだった。自分としては、真正面から組む柔道より動き回ってやる柔道の方が向いているんだ、自分を生かせるんだと思った。

自ら切り開いた勝つための柔道スタイル。ところが手応えを感じていた野村氏に父が重い口を開いた。 私情を挟まぬために距離を置いてはいたが、その実、息子の姿を陰から見守っていたのだ。 野村氏は言う。本当にアドバイスをもらうのは初めてだったけど『今だけ勝てる選手で良いのならそういう柔道をしたら良い。けれど、お前がもしこれから努力を続けて、努力が身を結んだ時に本物の実力がつき、そして長い間戦える、そういう選手になりたいなら、今は勝てなくていいからしっかりと組め、そして一つの技を磨け』と言われた。

初めは、やっと自分が勝てるスタイルを見つけたのに何で?という思いもあった。でも、今まで自分に対してアドバイスをくれたことのなかった父が初めてくれた言葉だったので、本当にすっと心に入って、父を信じようと思った。それまで父にはオレにも期待して欲しいとか認めて欲しいといった思いがあったけど、その時、やはり親としてオレを見てくれていたんだという嬉しさがあった。それでまた勝てない元のスタイルに戻した。

父のアドバイスはすぐには結果に結びつかなかった。でも、後々本当にそれがバチっとハマる瞬間が訪れる。

天理大学に進学し、父の教え子でもあるロサンゼルスオリンピック金メダリストの細川監督に師事した。 その頃、自分としては頑張っているつもりだったけど、厳しい練習が毎日続く中で、本当に目標を達成するために意味のある練習をしているのか、練習をしている自分に満足して練習が目的になっているのか、わからなくなっていた。 それを細川監督は見抜いた。 『お前は練習中いつも時間とか残りの本数を気にしている。ということは無意識のうちにペース配分しながら与えられた時間をこなしているだけだ』と。 言われた瞬間、「あっ見抜かれてるな」と思った。 実際やる気がある時は、先生の目の前でアピールするようにやったし、やる気が無い時は、先生から一番遠い所へ行って先生の顔色を見ながら練習することもあった。 本当に目標を達成するために意味のある練習を自分で見出していく姿勢が無かったと感じた。 細川監督は野村氏の性格や柔道に対する取り組みを見極めた上で『お前はこれ以上動けないという所まで自分を追い込んだら休んで良い。途中で練習止めて良い』と言われた。『後のことを気にせずに、目の前にある一本、これを試合と思って、緊張感、恐怖、自分を出し切る、最後まで攻める、絶対に投げられないなど、全て試合をイメージしながら練習をしろ』。 試合に近い状況を自分で作れるようになってきたら、練習の質がグンと変わっていった。

細川監督からの喝によって生まれた練習に対する意識の変化が野村氏の柔道を劇的に変化させて行った。 意識を変えて練習をするようになって、半年経たない頃に全日本の学生チャンピオンになった。 父から教わった、しっかり組むこと、一つの技を磨くことに加えて、意識が変わり、体も出来てきたことで、一気に花開いたのである。

話はまだ続きますが、一旦区切ります。 柔道で全日本学生チャンピオンになるのも物凄い事ですが、野村氏はその後オリンピック金メダリスト、それも前人未到の3連覇です。

本物の実力がつき息の長い選手を目指すなら、しっかり組んで一つの技を極めろというお父様の教え、そしてそれを信じて実行した努力、細川監督との出会い、これら全てが噛み合った結果だったのだと感じました。そしてもう一つ、原点として子供の頃にのびのびと柔道に向き合い、柔道を好きな子供に育った環境、これが大きかったのではないでしょうか。

次回は最初にオリンピック金メダリストとなったアトランタ・オリンピックについての話です。

令和2年8月17日

【第191号】

About The Author

Leave Comment