柔道ニュース 『山崎茂樹先生特集(第1回)』

みなさん、こんにちは。

たいへんご無沙汰してしまい申し訳ありませんでした。

 

柔道ニュースも、おかげさまで100号を迎える事ができました。

これもひとえに先生方のご理解と、道場のみなさまの暖かいお言葉、そしてご愛読頂いている皆様のおかげです。

本当にありがとうございます。また、これからもよろしくお願い申し上げます。

 

さて、節目として今回のテーマは『山崎茂樹先生特集』です。

山崎先生は、近畿大学付属福山高校(以下近大福山高)⇒近畿大学⇒旭化成という、いわゆる日本のトップレベルの柔道部で中心選手としてご活躍され、全日本選手権、全日本選抜体重別、全日本実業団、国際試合等でも数々の名勝負を繰り広げられました。また、得意技の内股のキレはトップ選手の中でもずば抜けており、誰もが認める美技でした。そんな先生の少年時代から選手時代、また道場設立後について色々お伺いした内容を何回かにに分けて皆様にご紹介します。

今回は第1回で、柔道を始めた頃の話です。

 

 

まずは、柔道を始めた頃について教えて頂きます。

 

1.柔道を始めた年齢ときっかけを教えてください。

 

『初めて道場に行った日のことを今でも鮮明に覚えています。

5歳(幼稚園年中)の時、母に手をひかれ家を出ました。道場への道すがら母が「コヤァー(怖い)先生と大きいお兄ちゃんに『タァーン!!』って投げらるんじゃけー」と言われビビって、母の手を振り切り一目散に家に帰った記憶があります。

それまでの私は近所でも有名な「やんちゃな子」で、「また、しげっくんが泣かしたぁ~」と、近所のお友達が私の母に泣きながら報告に来ることが茶飯事でした。とにかく手のつけられない「やんちゃ」で両親から毎日顔を見れば怒られていましたが、あまり気にしてませんでした。

そんな私でしたが、さすがに柔道の道場へ初めて行く日はビビリ上がっていました。母の何気ない一言に、鍵のかかった家へ一目散に帰って玄関前で蹲り泣いて動こうとしなかった事を覚えています。

 

私が初めて通った道場の名は「羽原道場 蔵王支部」。家から歩いて20分程度の距離にありました。福山城の袂、福山市城見町にある「羽原道場」(小学6年から通う)羽原道夫(みちお)先生の弟さん妙士(みよし)先生が開いた道場です。「羽原道場、羽原道場 蔵王支部」の2道場は、地方紙ではありますが新聞に掲載される選手がたくさん通う道場で、父から「ぶち、つえぇー選手がぎょーさんおるんじゃけー!きてやぁーてもらえー!」(凄く強い選手が沢山いるので鍛えて貰いなさい)と道場に通う事を強く薦められていました。

すでに近所の私のお友達(先輩含み)もたくさん通っており、野球、サッカーのようにこの地域での「習い事の流行が柔道」でした。

 

実はあまり記憶にありませんが、「柔道はかっこいい」という周りからすりこまれた先入観からか、私は「柔道やりたい!」と言ったそうです。その時、父から「自分から『やる!』といった事は自ら『辞める』と言うな!」と言われ、この言葉だけは今でもはっきり覚えています。父は飲食店を営んでいることもあり若いころから気性が荒く、短気で、曲がった事が嫌いな性格、いわゆる職人気質でした。その後、私は柔道を辞めたいと思ったことはないのですが、父の一本気に今は感謝しており、5歳から柔道を始めてよかったと思っています』。

 

 

2.広島県福山市と言えば柔道の盛んな土地柄という印象ですが、いかがですか。

 

『後々になって気付いたのですが、福山市という所は柔道の盛んな地域だと思います。備後柔道連盟は古くからいくつも支部があったと記憶し、広島県福山市を中心に岡山県西地区も合わせた近県柔道大会がいくつも開催されていたと思います。実家に帰り過去のプログラム等を紐解けばもっと記憶がよみがえるとは思いますが・・・。

一昨年に山崎道場も出場した「福山ばら祭協賛近県柔道大会」は備後柔道連盟の福山支部が主催の大会です。今年は残念ながら越谷市地区小学校の運動会が重なり出場できませんでしたが、来年以降は出場したいと思っています。

神社の奉納柔道大会もありました。最も記憶に残っているのは吉備津神社「通称:一宮(いっきゅう)さん」の奉納大会で古くから開催されていたと思います。昔は、このような奉納柔道大会は多く開催されていたのか、私の実家の近所のおじさん達が「茂樹、小学生だけの柔道大会すりゃーええねー、畳敷いたるどー」、と氏神様境内で柔道大会を促され、子供心に「投げられたら、土の上の畳じゃ痛いし、空の下はカッコ悪いなー」と思った記憶がある程です。』

 

 

3.当時の所属道場について伺います。練習スケジュール(回数/週)・時間・内容に

ついて教えて下さい。

 

『先ず、私の通っていた道場を紹介します。

幼稚園から小学3年生までは先ほど紹介した「羽原道場 蔵王支部」、4,5年生は「深川道場」、6年生から中学3年生まで「羽原道場」に通っていました。

「羽原道場 蔵王支部」は、記憶は定かではありませんが、土、日曜日の数時間といった、さほど強さを追及する道場ではなく、今思えば「ゆるーい」道場だったなと思います。一階が整骨院、二階が柔道場で併設されたプレハブの道場で「ほねつぎ」と書かれた看板を子供心にビビリながら通っていました。見学する場所がほとんど無いにもかかわらず、母親が出入り口の近くで小さく座って時々稽古を見ていた記憶があります。

道場の大きさの割に門下生が多く盛況で、幼稚園、低学年と初心者は体操が終わると道場の壁際に座らされ、中学年以上の稽古を見学させられました。その時間はとても長く、隣のお友達と話たり、寝る子もいました。時々、先生が気付いたかのように、「受身の稽古」と称して足払いと支え釣り込み足で全員を数本投げて、それで稽古時間が終わった記憶もあります。

それでも、小学2,3年の頃は、柔道大会にたくさん出場させていただきました。

当時、同じ門下生もさほど強い選手はいなかったと記憶しますが、私はとても弱い選手で、トーナメントの一回戦勝てればいいなと大会には臨んでいました。この頃、厳しい両親から色々な場面で怒られた記憶は沢山ありますが、柔道の試合で負けて怒られた記憶はありません。いつも「次、頑張ればええじゃないか」。

両親は、試合会場が車でしか行けないようなところが多かったせいもありますが、よく観戦に来てくれていました。父親は「岩本君に何回やっても勝てんかったもんなぁー」と当時の私の同級生の話などを今でもします。

当時からそうですが、私が通った福山市立蔵王小学校地区では「ソフトボール」が盛んです。4年生頃になると男の子は「野球」に目覚めます。私も例外ではありませんでした。身長もクラスで一番後ろの方で「柔道」をしていたせいか肩も強く外野を守らされました。「ソフトボール」の練習は土、日が中心となりレギュラーを取るためには「柔道の稽古」との両立が困難になってきました。柔道をしていた同級生が「ソフトボール」へどんどん変わっていった時期でもありました。

そのころと同じくして、父親の知人が「柔道場」を立ち上げるという情報が入りました。「ソフトボール」を考慮してか稽古は平日の夕方のみ、新設道場故に試合数がぐっと減るが、強さを求めて稽古をするとのこと。柔道の強さに魅力を感じていた私にとって願ったり叶ったりの環境でした。一部の「羽原道場 蔵王支部」のお友達と正式に新柔道場に移ることになりました。

 

この道場の名前は「深川道場」。先生は「深川建設」という地場の中堅ゼネコンの社長の深川善平(ぜんぺい)先生と息子さん2人「長男:善征(よしまさ)先生、次男:健治先生」で、情熱を持って私たちに指導して頂きました。

時が経つにつれ、少ない門下生では相手がマンネリとなってしまい、何より試合が少ないことによって、自分がどの程度強くなっているかの尺度が測れないといった状態になって行きました。その後、「深川建設」の仕事が忙しくなると先生3人とも忙しくなって稽古時間が少なくなり、お休みになることも増えてきました。

飲食業を営んでいる両親も、「深川道場」の稽古時間は夕方ということもあり、この頃は稽古の見学に来ることはほとんどありませんでした。

そんな折、私の一つ下の後輩(運動神経抜群の子で深川道場の主力)が「野球のリトルリーグ」へ本格的に挑戦することになりました。これが私の中での転機になりました。5歳の時、自ら「やりたい!」と言って始めた柔道を辞めるつもりは毛頭ありませんでしたし、好きな柔道を続けたいと強く思っていました。

両親に相談し飲食店のお客様の情報もあり、広島県下の町道場でも名門の「羽原道場」へ見学に行くことになりました。

当時、「羽原道場」の指導者は羽原道夫(みちお)先生から茂(しげる)先生に代わっており、手の力に頼らず相手より先に動き技を掛けるというスピード重視の柔道スタイルを教えていました。「深川道場」よりはるかに狭い30畳ほどの道場で十数組の門下生たちが動き回って、殆ど隣の組と当たらず稽古をしている光景に驚くばかりでした。

このスピード重視の柔道スタイルを伝授頂くため6年生から柔道環境を変えることにしました。

道場を変えるタイミングは難しいもので、後に聞いた話ですが、父が深川善征先生へ道場を変える相談に行った際、泣いて私を引き止めたそうです。本当であれば2つ年下の私の弟と羽原道場へ通う予定でしたが、弟は自転車で羽原道場まで通えない等の理由もあり、父の判断で深川道場に残りました。後に私の弟は健治先生の影響もありレスリングの道へ進みました。

余談ですが、三男の洋揮先生は柔道は全くする気が無く、私達二人の兄の道衣を捨てるのがもったいないから小学4年生の頃始めたようです。

 

「羽原道場」は、福山城の袂、福山市城見町の「羽原接骨院」に隣接する町道場で、私の実家から自転車で約30分の距離です。私はここへ週3、4回通うことになりました。小学生と中学生・一般の稽古の時間は分かれているのですが、小学生の時間が終わって、中学生の稽古時間も参加させていただき、延べ3時間程度の稽古をしていたと思います。中学生との稽古はとても自信に繋がった記憶があります。

雨の日も風の日も余程のことがない限り自転車で通いました。それでも流石に小学生の自転車では危ない天候の日は、父が飲食業の送迎用マイクロバスで迎えに来てくれました。自転車をバスの座席通路に乗せての帰宅です。お店のお客が少なく母が切り盛りできる時でないとこの状況にはなりません。稽古でへとへとになった私は、道すがら父と稽古内容を話し、もっと迎えに来てほしいなぁ~と思いながら、とても嬉しかった記憶があります。』

 

 

有難うございました。

今回お話頂いた内容は、ちょうど山崎道場門下生の年代です。オリンピックを目指しておられた先生が、どんな少年時代を過ごされていたのか、門下生並びに保護者も非常に興味がある事と思います。

ためになる内容、有難うございました。

 

ちなみに、次回の質問は以下を予定しています。

 

4 先生ご自身が道場練習で特別に意識されていた事は、何かありますか。

 

5 所属道場以外でも練習していましたか。

 

6 自宅でもトレーニングされていたと思いますが、メニューと時間を教えて下さい。

 

7 小学生時代の得意技を教えてください。

 

どうぞご期待ください。

 

 

平成24年6月1日

【第100号】