柔道ニュース 『柔道をこよなく愛した外国人』

みなさん、こんにちは。

楽しみにしていたゴールデンウイークも、終わってみればあっという間ですね。

5月と言えば新緑の季節。都心の緑も良いですが、出来れば郊外に、それも雨の翌日の良く晴れた日に行きたいですね。

 

今日は私の好きな詩を一つ紹介します。

 

 

ふらんすへ行きたしと思へども

ふらんすはあまりに遠し

せめては新しき背広をきて

きままなる旅にいでてみん

 

汽車が山道をゆくとき

みづいろの窓によりかかりて

われひとりうれしきことをおもはむ

五月の朝のしののめ

うら若草のもえいづる心まかせに

 

 

この詩は、今から百年位前、1913年の萩原朔太郎氏27歳頃の作品です。

朔太郎氏は、群馬県前橋の出身。フランス文学に憧れ渡仏を希望しましたが、両親に反対され断念します。船で片道1ヶ月以上もかかる時代の話です。

私は、文学的な事は良くわかりませんが、とても美しい詩だと思います。高校時代にこの作品に出会い、今でも時折思い出す、そんな作品の一つです。

 

 

さて、今日のテーマは『柔道をこよなく愛した外国人』です。

 

東海大卒のラドミール・コバセビッチ氏をご紹介します(恐縮ですが以下彼と略させて頂きます)。

彼は、1954年に旧ユーゴスラビアで生まれ、首都ベオグラードで山本氏という東洋大OBの日本人に柔道を習いました。山本氏はその素質にほれ込み、彼はその後2度にわたり日本に滞在します。

私はある事から、彼の存在をかなり以前から知っていました。

それは彼が最初に来日した際、山本氏の紹介で同じ東洋大OBの指導している栃木県足利市の道場で稽古していた事に起因します。

その当時、私の父は近隣の他の道場でしたが、彼が地元の大会で『××センパイ、ガンバレ!』と大声を張り上げて応援していた事などを聞かせてくれました。また、当時の強さは既に全日本級だったそうです。当時、大学のトップクラスで活躍した選手が、卒業して地元に戻ってきたのですが、『彼は全日本級だ。オレの技は通用しない。逆に振り回されてしまう』と話していたそうです。

その後一旦帰国し、次に来日して修行したのが、ご存知東海大です。それも短期間滞在した訳ではなく、4年間在学し卒業しています。

東海大では彼の方が年齢は上でしたが、あの山下氏の1年後輩として入学しました。4年生も含めほとんどの学生が年下であり、まして全く習慣の違う東欧人ですから、大変な苦労も想像できます。

大学時代の彼は、山下氏と共に2枚看板として大活躍、1年からレギュラーとなり、東海大の団体戦初優勝に貢献しました。以来卒業まで4連覇を全て主力選手として経験しました。もちろん一人だけで出来る事では無いですが、未だに誰も成し得ていない学生柔道界の記録だそうです。

身長198㌢体重125㌔、重量級でもアンコ型では無く、しっかり2本組んで豪快な技を繰り出し、寝技にも長けていました。『力では無く技で勝ちたい。きれいに勝ちたい』と常に目標にしていました。私は足利時代は知りませんが、学生時代の強さは強く印象に残っています。当時、三羽烏と言われた山下氏、吉岡氏(中央大)、松井氏(筑波大)など一部の選手を除けば、並み居る大学のレギュラーを子供扱いする位、実力差がありました。

また、柔道だけでなく授業も常に一番前で受ける模範生だったと当時の佐藤監督もコメントされています。

国際大会でも活躍し、1979年のパリ・世界選手権3位、翌年のモスクワ・オリンピックでも3位(銅メダル)になっています。確か、この時はブルガリアのザプリアノフ選手に掬い投げでポカ負けでした。日本(山下氏)が出場しない大会で、優勝候補と目されていただけに残念でした。

五輪後は、ニューヨークに20年程滞在(当時祖国は内戦)し、高校で日本語を教えていたそうです。しかしながら、5年前の2006年6月、52歳という若さで癌のため亡くなりました。

ベオグラードで行われた葬儀には、東海大を代表し山下氏が参列されました。

学生時代、彼は山下氏に自分の生き方を次のように語っており、山下氏はこの言葉に強く影響を受け、30年近く経過した葬儀の際もこの言葉を思い出されたそうです。

 

『私は、柔道家らしく。

私は、男らしく。

私は、ユーゴスラビア人らしく、人間らしく生きたい。』

 

彼を良く知る人は皆、『日本を、そして柔道をこよなく愛した人』と言います。

そんな彼の言葉だけに、ずっしりと心に刺さる言葉だと思います。

 

 

平成23年5月11日

【第74号】